日本で流行った洋楽ヒット’69~’79(70代 男性)
もう長いですね。日テレで初めて(~風景)を見てから最初から購入してます。特にこのCDは私と共に、当時エネルギッシュに生きた1曲1曲が青春の一緒に歩いた、すべてです。感謝!大事にこれからも「私の宝」として共に歩みます!!これからもファンですよ!よりよい作品を…!!
SONGS FOREVER Part1/2, マイメモリーズ(60代 男性)
私は障害者(3級)ですが、深夜3:00からの「音楽のある風景」をたまたま鑑賞しました。背景の絵画の様な画面と名曲に心をうばわれました。若かった時を思い出すと共に、又頑張ろうと思いました。今後も新しいヒット曲と共に、いつまでも続きますように祈っております!!映画の名曲もお願いします。
そういう意味で、この『音楽のある風景』事業はユニバーサルミュージックという会社の中で異端でした。ユニバーサルはこの頃、色々な会社やレーベルを吸収合併しながら急速に大きくなっていったのですが、当然それを支えたのは若い世代による時代の最先端を行く音楽です。若者向けのたくさんのシングルヒットを量産する会社の中で、後期高齢の方々に向けてCDを開発し販売するこの『音楽のある風景』は明らかに会社の異物であり、会社が目指す方向とは真逆であったがゆえに、利益が出なければすぐにでも撤退させられる存在でした。ですがスタッフと私はこの仕事に意義と意味を見出していました。放送は深夜早朝でしたから意外と若い世代が見てくれており、『音楽のある風景』を通じて日本の歌謡曲やフォークの良さを知ったという若者も多かったのです。時代が生み出した音楽を継承していくことはその国の文化の厚みと深化に不可欠なことであり、20世紀の音楽を次の世紀に引き継いでいくこと、その影響がまた新しい音楽を生み出していく流れは、企業の利益とは別に創出していくべきだという信念を我々は捨てませんでした。ユニバーサルミュージックは外資系企業ですから当然それなりの高い利益が求められます。そして私もまた管理職としてそのことを全力で目指しましたが、毎改編ごとのBS放送枠の高騰が無情にも利益を削ぎ落としていきます。創業から10年目を迎えた2012年頃にはユニバーサルミュージックでの事業存続が事実上困難な見込みとなりますが、どんな形ででも残せるのなら残したほうが良いという当時の社長の言もあり、私は存続の道を模索しました。それが燈音舎という外部の会社への譲渡に繋がっていきます。2013年11月『音楽のある風景』事業の内、制作業務をユニバーサルに残して、通信販売業は株式会社燈音舎に譲渡することで何とか存続の道が拓けました。また、当時ユニバーサル社は大掛かりなリストラを断行しており、部門長の私にも非常に厳しく冷酷なミッションが会社から降りてきていました。社員の何名かを燈音舎に転籍させることで退職者を再雇用させることが出来るという計算や思いがあったことも事実です(3名転籍、内1名は辞退)。創業から11年目のこの2013年は『音楽のある風景』にとっても、また私個人にとっても最も厳しくつらい時期でした。それでも商品企画や番組制作で音楽に触れているとき、やはり私は音楽に救われたのです。音楽は真にすばらしいものであり、そしてそれを生み出す人間もまたすばらしいのだという、その思いだけは揺るぎませんでした。もしそれを喪失していたら、きつかったあの2013年からさらに十数年、この仕事を続けるなどとても出来なかったと思います。ちなみに先ほどの去った社員たちに1年半ほど遅れる形で2015年に私もユニバーサルミュージックを退職し、自分の小さな会社を作ってしばらくは在野の形で『音楽のある風景』に関わりました。そして退職から5年後の2020年に、ここでもまた色々なことがあって燈音舎の代表に就任、結局のところ2025年の終焉まで途切れることなくこの事業と歩みをともにすることになったのでした。
在野になった2015年以降は会社員というしがらみから脱することができたお陰で、それまでとは比較にならないぐらいに『音楽のある風景』事業に集中・没頭することができました。創業20年を迎える2022年を目指し、到達した次は25周年の2027年を目指しました。私はそこをゴールと見定め、それまでにあらゆるジャンルを投入しようと開発のスピードを上げました。幸い、出身母体であったユニバーサルミュージックは当時世界最大の音楽カタログを保有する会社になっており、その人類遺産ともいうべき音楽を放送媒体に乗せて、失われた30年と言われる暗く長いトンネルをくぐる日本の人々に届けることが私の使命でした。限りある時間とお金と体力の勝負でした。最後の数年は、売上が厳しいことは分かっていても、バロック、ラテン、シティポップ、戦前の昭和歌謡など未着手の分野にまで商品投入の幅を広げました。そうしてとうとう途中で力尽きました。文字通り、力尽きたという感じでした。コロナ禍が明けた後の最後の数年、燈音舎は代表者である私と、ユニバーサル時代からのスタッフとのわずか2名での運営でした。この頃になると『音楽のある風景』はもう力を失っており、周りのサポートが無いと存続できない状況になっていました。そして気付くと周りももう疲弊していたのです。やめどきでした。やめる決断は私にしかできません。それが2024年の春です。
ここで勝手に時間を30年巻き戻します。映画でいえばモノクロの回想シーンです。1994年、私は31歳でした。この年にそれまで東芝EMIにいた石坂敬一さんが社長として着任します。全従業員が当時目黒にあった本社ビルの一番広いAスタジオに集められ、そこで石坂さんが新社長としての挨拶をされました。石坂さんは音楽業界では非常に有名な人でしたから、会社がどのように変わっていくのか私や同僚はすごく楽しみでした。当時の私は中途入社から4年、まだ何の実績も上げられてはおらず、音楽は好きではあるものの一体自分はこれから先どうすればいいのか、何をやりたいのか何もわからない状態でした。登場した石坂新社長はパリッとしたスーツに身を包んだ姿勢の良い人でした。音楽スタジオですから椅子などなく全員がスタンディングです。私は後ろの方から伸びあがるように、その人と成りを見つめたことを覚えています。その就任あいさつで石坂さんは、その後私の人生に大きな影響を与える言葉を述べました。「会社とは個人が自分の夢を実現するためのツール(道具)である」と。大げさではなく、遥か天空からの稲妻がちっぽけな私の頭を貫きました。私は言葉を失いました。あのとき大勢いた社員たちの中で石坂さんのこの言葉を今でも覚えている者が何人いるかわかりませんが、私にとっては終生忘れえぬ強烈な一言として脳裏に刻まれました。会社という大きな傘、昭和の感性と物差しで生きていた私にとって会社とは自分たちを庇護してくれる存在、大きな傘でした。会社という絶対的な存在の下で、真面目にルールを守って日々を過ごせば生活の安全と保障をくれるのが会社だと思っていたのです。ですが石坂さんは会社をツール(道具)だと言い切ったのです。ここでは主従が完全に逆転します。個人が会社の上に位置し、道具におとしめた会社を使って、自己の夢を実現する。そんな大それたことを考えたこともありませんでした。会社を道具として扱うためには個人はとてつもない力をつける必要があります。描く夢も必要です。一体自分の夢とは何なのか、そもそも自分は何を為すべきなのか。1994年石坂さんが放った稲妻の言葉によって、私の身中に変化が起きました。そして考えに考え、模索し、8年間も迷走して、2002年にようやくたどり着いた私の夢はとてもシンプルなものでした。
話を戻します。各社と話し合った結果、『音楽のある風景』を終えるのは2025年3月と決まりました。区切りの良い25周年には届かず、23年での終了という中途半端さは自分らしいなと割と気に入っています。放送を終えた西暦2025年は終戦から80年という節目でもあります。創業当時に『音楽のある風景』を支えて下さった戦前生まれの方々の多くも亡くなられ、団塊世代の方々も後期高齢に入られました。そしてお客さまと同様、私やスタッフも年を取り、38才でこの仕事を始めた私は気づくと還暦を超えて61才になっていました。見回すと今や全国ほぼどこにもCDショップが無く、再生機器であるオーディオ・ステレオも過去の遺物です。かつてのスターたちの多くも鬼籍に入られました。じゅうぶんやり切ったので悔いはありません。これだけ幅広く良い音楽に接することが出来て幸せでした。その機会をくれたあらゆる方々にこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
そうそう、折角ですから最後に書いておきます。2010年頃でしょうか、石坂さん(当時は会長)が「日高さんがやっている夜中のあれイイネ」と褒めてくれたのです。石坂さんは会社のトップなのに、18歳も年下で役員でも無い私のことをなぜかいつも「さん付け」してくれるのです。そのときに例の道具の話を返せれば良かったのですが、胸が詰まった私は何も言えませんでした。
音楽のある風景 責任者
日高 治彦
(2026.07.13 改稿)